日記塾~ひだまりの家とわたし~

「大人は理不尽である」…親の理屈と、子どもの気持ちについて考えたこと(自戒の念をこめて)

「食べ物を粗末にしちゃいけない」「物は大切にする」などの親の言う“理屈”。

最近、この“理屈”と“子どもの気持ち”について考える出来事がありました。

大人は子どもの何十倍も力があります。

だからこそ、大切にしたいと感じていることがあります。

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息子をギャン泣きさせてしまった出来事

先日、息子(2歳児)と二人で公園で遊んで、家に帰ってきたときのこと。

息子のズボンが砂だらけだったので、「このズボンで家の中を歩き回られちゃ困る!」と、靴を脱がしてすぐズボンも急いでエイっと脱がしました。

すると、突然ズボンを脱がされたのがもの凄くイヤだったのか、顔を真っ赤にするくらい息子がギャン泣きしだしました。

腕を左右にブンブンと振り回して、体全体で怒りをあらわにするくらい泣き叫ぶ息子。

半ば疲れていたわたしは、耳をつんざくような泣き声にイラっときて「ズボンが汚れてたから脱がしただけだよ!家の中が汚れるやろ!」と息子に言い聞かせるように強く言いました。

しかし強く言えば言うほど泣き声は大きくなり(当たり前ですが)、「ズボン脱がされたのが相当ショックだったんだな」と思ったものの、イライラしているわたしは「ハイハイ悪かったね!ごめんね!」微塵も謝る気もなく息子の背中をさすりながら言葉だけ謝りました。

それからしばらくして、その出来事のことを思い出して、考えました。

息子の立場からみて、わたしのした行動はどんなふうに感じただろうなぁと。

想像して感じたのは、“怒り”と“悲しい”という感情。

わたしが子どもの頃に感じていた「大人は脅威で、理不尽だ」という気持ちでした。

「大人は脅威で、理不尽である」

わたしが小さいころ、父との記憶でなぜかよく覚えている出来事があって。

それは、夜ごはんを食べているときに、わたしと父が「卵かけご飯を食べたい」と言いだしたときのことでした。

さっそく二人で作ったのですが、先に食べだした父が「ウッ」と口からご飯を吐き出しました。

どうやら卵が古かったらしく、生では食べられそうにないとのこと。

でも、食べたくて仕方がなかったわたしは「食べたい」とごねました。

父は「卵が古いから食べない方がいい」と言い、食べれないとわかったわたしはそれでも「食べたい食べたい」と泣きわめきました。

すると父から、なんて言われたかはハッキリとは覚えていませんが、「じゃあ食べたきゃ勝手に食べろ!」と、突き放されるように強く言われました。

わたしは、父から冷たく突き放され、卵かけご飯は食べたくても食べられず、泣いても気持ちのやり場がなくて悲しかったのを覚えています。

滅多に怒る父ではなく、これが唯一覚えている父から怒られた記憶。

でもなぜかこの出来事をよく覚えていて、今回の息子との出来事でこのことを思い出し、「大人の理屈」「子どもの気持ち」について考えました。

大人は子どもの何十倍も力があり、子どもは抵抗したくでも抵抗できません。

さらには気持ちもわかってもらえず、力でねじ伏せられてしまうことがたくさんあります。

わたしが息子にしたことも、「家の中が汚れるから」という理屈があったわけですが、それはわたしの勝手な理屈だし、息子には理屈がまだわかりません。

自分の意思に反していきなりズボンを脱がされたら、そりゃもの凄くイヤだし憤慨するに決まってる。

でも、力で抵抗できず気持ちも受けとめてもらえなかった息子は、大人の力をどれほど脅威に感じ、どれほど悔しくてたまらなかったことだろう。

顔を真っ赤にするほどギャン泣きしていた息子の姿に、わたしが子どもの頃に感じていた気持ちを感じて、心が痛くなりました。

子どもの気持ちに共感し、素直に謝れる親でいたい

とはいえ、なるべく子どもの気持ちを優先させてあげたいけど、そうはいかないことの方がたくさんあります。

たとえば車が通る道で、手を繋いで歩いていた息子がわたしの手を振り払って走り出したときは、危ないので強制的に抱っこして移動します。

歩きたい息子はめちゃめちゃ嫌がるけど、これは安全のためには仕方のないこと。

純粋な好奇心でいっぱいの2歳の息子には、危険なことはわからないし、ある程度力で行動を制限させなきゃいけないことはたくさんあります。

せめて大人の力を発動するときは、なるべく道理にかなったときだけにしたいと考えてはいますが、判断基準はあいまいだし、つい感情的に抑えこんでしまうことがたくさんあります。

たとえば、ごはんを床に落とされたり、コップの飲み物を床にダ~とこぼされたりしたとき。

「食べ物は大切にするべき」とか「床が汚れるから」という理屈はありますが、息子にとっては“手から物を落とす”という経験を積んでいる行為でもあります。

「食べ物を大切にするべき」という理屈を理解するのには時間がかかるので、息子が理解するまで待ってあげること、根気よく伝え続ける必要があることだと思ってはいるものの・・・。

疲れてると、ついカチンときて感情的になり「落とすならもうごちそうさまするよ!」と強制的にお皿を取り上げてしまうことがたくさんあります。

強制的に取り上げられた息子は、怒って大声で泣きわめきます。

こういうとき、「食べ物は大切にすべき」という理屈をわからせたいという気持ちよりも、息子が思い通りに行動してくれないことにイライラしてしまう気持ちの方が強いなと思います。

なるべく、理不尽に息子を力で抑えこんでしまうことはしたくない。

でも、息子が理解するまで待ってあげたり、根気よく伝え続けることは、めっっっっっっちゃくちゃむずかしく、菩薩のような広い心が必要で、たぶんムリです。

なので、せめて息子の心を傷つけてしまったときは、素直に謝れる親でいたい。

イライラしているときは心がひねくれまくっているので、素直に謝ることも正直言ってむずかしいですが。

そういうときは、いったん一呼吸おいて感情的になっている自分から離れて、息子の気持ちを汲み取るようにしたい。

そして、「そうだね、○○したかったんだもんね」と共感してあげるようにしたい。

それから、「ごめんね」と素直に謝ったり、「でも△△だから」と客観的に伝えていけるようにしていきたいです。

自分が全然できていないので、自戒の念をこめて。

【自分の感情や意志を受け入れてもらえること】は、自分を価値のある存在だと認めてもらうことにつながると思います。

感情を受けとめてあげることは、存在を認めてあげることにもなる

後日談。

ある日、息子が空気清浄機の水が溜まるタンクを取り出して、遊んでいるのを発見したときのこと。

飲める水ではないし、水浸しになったら困るので、息子からタンクを取り上げました。

取り上げられた息子は抗議してギャン泣き。

そのとき、わたしは息子を抱きしめて背中をさすりながら、「遊びたかったんだよねぇ、でも飲める水じゃないから誤って飲んだらいけないからね、ごめんね、…遊びたかったねぇ」と、息子の気持ちに共感しながら、謝るのを繰り返しました。

すると、腕の中で大泣きしていた息子がしばらくしてスゥっと泣き止み、機嫌をもどしました。

ガミガミ言っていたときと比べたら、息子の泣きやむ早さは雲泥の差で、思わず目を丸くしました。

【感情を受け入れてあげることは、その子の存在を認めてあげることにもなります】

わたしは、以前ひだまりの家サンポミチのカウンセラー多美子さんの講座で【感情】について学び、こう教えてもらいました。

その講座の中で、とあるおばあちゃんと女の子のエピソードを聞いたのですが、それが今回わたしが息子と体験したこととまったく同じで。

つまり、子どもの感情を受け入れず「○○だから」と理屈ばかりわからせようとして、子どもの行動がどんどん悪化していたのが、子どもの感情を受け入れてあげることで、子どもの行動が劇的に変わっていった、ということ。

今回、息子の気持ちに共感したことで態度が激変したのを目の当たりにし、「感情を受け入れてあげるだけでこんなに変わるんだ!!」とビックリしたのと同時に、【感情】がどれほど大事かということを実感しました。

【本当の感情を吐き出せること】、【本当の感情を受け入れてもらえること】は、その子の存在を認めてあげることでもあり、子どもが良い自我状態を形成していくためにすごく大事なこと。

わたしも、もしあのときの「卵かけご飯が食べたい」という気持ちを受け入れてもらえていたら・・・これほど傷ついた悲しい思い出として覚えていなかったと思います。

たぶん、子どもにとって本当に重要なことは、実際に卵かけご飯が食べられることではなく、自分の気持ち(=存在)を大切にしてもらえること。

だから、気持ちを受け入れてもらえた息子は安心してすぐに泣き止んだのだと思います。

でも、頭ではわかっていても、息子の感情を心から受け入れることは、なかなかむずかしいことです。

イライラしているとつい息子の感情を無視したり、力で抑えつけてしまったり、そんな自分に後から自己嫌悪して反省して…を繰り返し、余計ストレスが溜まってしまう悪循環にハマっていました。

わたしの場合、息子の感情を受け入れてあげるには、心に余裕があることが必要。

自分の心をなるべくフラットな良い状態に整えておくことが、今のわたしには必須条件。

子育てをしていると「こうしたい」と思っていてもできないことが山のようにありますが、そんな自分を責めるよりも、自分を大切にしようと意識している方が、「こうしたい」と思っている方へ近づいている気がします。

ガミガミ言うよりも素直に息子の感情を受け入れて謝る方が、息子が早く泣き止んでくれるので、わたしも圧倒的に心が楽だということがわかりました。

すべてが「息子のために」ではなく、「自分が楽でいるために」息子の感情を受け入れようと考えることもアリだと思う。

なるべく、心がゆったりと良い状態でいることを意識している毎日です。

 

 

みんながホッと安心できる場所
~ひだまりの家サンポミチ~

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熊本県宇土市にある、ひだまりの家サンポミチ。

ここは、日本Share&Careの認定カウンセラー高瀬多美子さんの、「みんながホッとできる安心安全な場所をつくりたい」という想いで始まった、ひだまりの家です。

 

さんぽみちの途中に、ちょっと自分を見つめなおすための場所として…

子育て中のお母さんが、ホッと安心できる居場所として…

あらゆる世代、立場、経験をもつ人たちとの対話が生まれる場所として…

 

さんぽの途中にちょっと寄って遊んでいこうと思える

そんなあたたかな場所をみなさんと作っていきたいと思っています。

ぜひ遊びに来てくださいね。

 

ひだまりの家サンポミチHP

hidamarinoiesanpomichi.jimdofree.com

 

たまに【お母さん】としてではなく、【わたし】としての人生を思い出す

普段は気づかないけど、生活も思考も無意識に子どもを優先にして考えています。

それは、子どもを思うからこそ、自然なこと。

でも、「お母さん」である自分と「わたし」との間にジレンマを感じることもあります。

自分らしさ、について考えたことを書きました。

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“娘”から突然“お母さん”になった気持ち

息子が生まれてから、早2年が経ちました。

普段はまったく気づいていないのですが、生活も思考もいつのまにか無意識に息子を中心にして考えているなぁ、と思います。

たとえば、ごはんを食べに行くときも「息子が食べれるものがあるところ」や「座れる席があるところ」を無意識に候補に選んだり。

出かけるにしても、「お昼寝があるから○時までには帰ろう」と時間を細かく決めるようになったり。

息子が起きている時間は、なるべく息子にかまってやりたいので、スマホもパソコンもなるべく触らないようになったり(テレビはもともとわが家にないので観ない)。

“お母さん”になったんだから、子どものことを第一に考えるようになるのは自然なこと。

でも、それを100%自らの意志でやっているかというと、わたしの場合は「お母さんならこうあるべき」というイメージと、「これがしたい!」という自分の中の子どものような欲求との間で、ジレンマを感じながら“お母さん”をやっているときもあります。

「これがしたい!」という欲求にはさまざまなものがあります。

たとえば、「今コーヒーが飲みたい」とか「今これが見たい」みたいな、瞬間的に湧き上がる欲求は、パパっと満たしちゃったりガマンしてもそれほどストレスにならなかったりするのですが。

むずかしいのは、その欲求が「自分の人生にとって重要なこと」「大切なこと」「本気で好きなこと」だったとき。

そして、そんな欲求ほど、息子のこととの両立がむずかしかったりします。

以前そんなことがあって、めちゃくちゃ悩みまくり、「息子のために」とその欲求をおさえこんでいたのですが、知らずうちに心が疲れきってしまっていたことがありました。

nikkijyuku.hatenablog.com

子どものことを優先することが無意識のクセになってしまっているので(子どものことを想うからこそ)、自分の本当の気持ちをガマンしていることにすら気づかず、ストレスになってしまっていることがあります。

このときのわたしは、家事・育児・仕事…をたんたんとこなしていく同じような毎日が続いていて、子育てにも自信がもてず不安でいっぱいで、「楽しい」という感情すら感じれなくなってました。

【わたし】というものがなくなり、このままいくと、「息子が自立していったときに、わたしにはなにもなくなるんじゃないか」とふと思い、不安や焦りを感じていました。

この【お母さん】である自分と、【わたし】との間にあるジレンマについて、映画『Boyhood』(邦題『6才のボクが、大人になるまで。』)の中に出てくる言葉で、めちゃくちゃ共感できて胸に刺さる言葉がありまして。

それは、友人からの誘いに「子どもと一緒にいたいから」と断っている主人公のお母さんが、その友人と言い合いになったシーンでのこと。

行きたいけど行けないことにイライラ(悲しい?)しているお母さんが、友人にこう言います。

「わたしは“娘”からいきなり“お母さん”になったの!」

この「“娘”からいきなり“お母さん”になった」という言葉に、お母さんのいろんな気持ちやジレンマを感じて、その気持ちが痛いほどわかり、すごく胸に突き刺さりました。

このお母さんは、子どものことをすごく大切に想っています。

それと同時に、子どもを育てなければならない親としての責任や、突然自分の時間がもてなくなってしまったことへの憤りも感じてます。

その気持ちが、痛いほどよくわかる。

わたしのような、【1人時間が好き・子どもと遊ぶのが苦手・人の世話が苦手】な人間には、“お母さん”でいることがときにものすごくしんどく感じることがあります。

息子のことが本当に大切だし大好きなんだけど、だからといって自分のことを後回しにして息子のことを優先し続けるのは、やっぱりストレスに感じることもある。

笑いたくても笑えなかったり、息子に対してイライラしてしまうときもめちゃめちゃあります。

だからこそ、「お母さんならこうあるべき」というイメージに自分を縛りつけすぎず、子どもを想うからこそすべてを子どものためにガマンするのではなく。

また心から子どもに笑いかけられるように、たまに【わたし】の欲求を満たすのを許してあげることを大切に思う。

【わたし】を思い出す時間

この間たまたまYoutubeを見ていたら、ストリートピアノを弾いているピアニストの青年の動画が目にとまりました。

大好きな曲だったので思わず聴いてみたら、めちゃくちゃ感動しました。

www.youtube.com

なによりその青年がすごく楽しそうにピアノを弾いている姿に、すごく心が惹きつけられました。

自分の好きなテンポで、アレンジで、自由に弾いていて、自分らしさをためらいなく表現している。

そして、自分らしさを通じて人の心を動かし、交流が生まれ、心地よい一体感やあたたかい空間が生まれていく。

『自分らしく生きる』ってこういうことなんだなぁ、素敵だなぁ、と心ゆさぶられました。

息子には自分らしく生きてほしい。

だから、わたしも自分らしく生きて、「自分らしく生きられるんだよ」って伝えられるわたしでありたい。

そのためにも、今はスキマ時間でも【自分の時間をもつこと】を大切に思います。

以前は、息子が起きている間はなるべく息子と関わるようにして、息子が寝ている間に家事をしたりしていました。

でも、なんでもかんでも「息子のために」とガマンしないようにし、息子が寝ている時間は家事がどれだけたまっていようが(キッチンがどれだけカオスになっていようが)家事には手をつけないで自分のやりたいことをやるようになりました。

↑の記事を書いてから約半年経ちましたが、まだまだ余裕がなくなることはあるけど、だいぶマシになったなぁと思います。

“好き”や“楽しい”は、心に余裕をとりもどすと感じられるようになるんだって気づきました。

心に余裕をとりもどす方法はいろいろあると思いますが、わたしにとってのそれは、

自分の本当の感情に気づくこと。

そして、その感情を認め、吐き出してあげること。

本当の感情は気づきにくいものですが、気づいて吐き出してあげると、スゥっと消えていきます。

逆にニセモノの感情は、吐き出しても消えないものです。

最近、息子や旦那さんに対してイライラが止まらなかったとき、ガミガミ言えば言うほどイライラが収まらず、ドツボにハマって心がどんどんすさんでいきました。

ですが、自分を俯瞰してみたときに、大きな不安を感じていることに気づき、また自分で自分を責めていたことにも気づきました。

その感情を認め吐き出せたことで、ドツボにハマっていた状態から少しずつ抜け出すことができました。

心に余裕がなく、相手をどうにかしようとしているときは、大抵自分の中に抱えているべつの問題があります。

その問題に目を向け、本当の感情に気づき吐き出してあげることが、心をふぅっと楽にする方法です。

心の余裕をたもつことは、「好き」や「楽しい」「おもしろい」を豊かに感じるためにも、子育てにおいても、すごく重要なことだと感じていて、今のわたしの課題のひとつ。

雨上がりに濡れた草木に夕陽がさして、露が金色にキラキラと輝いているのを見て「美しいなぁ」と感じたとき、「美しい」と素直に感じれた自分をよかったと思えました。

最後に、『Boyhood』はマジで深くていい映画なので、おススメです。

母子家庭で育ち自分も親になった今のわたしだからこそ、映画の中に出てくるシングルマザーのお母さんの気持ちや、主人公の子どもの気持ちが痛いほどわかり、「親が子を想う気持ち」と「子どもが親に本当に求めているもの」について考えさせられる映画です。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

 

みんながホッと安心できる場所
~ひだまりの家サンポミチ~

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熊本県宇土市にある、ひだまりの家サンポミチ。

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子育てが思い通りにいかずイライラが爆発して大泣きした日。新型コロナに対する不安と。

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子育てが思い通りにいかず大泣きした日

2020年4月で、息子が2歳になりました。

1歳の誕生日では、まったく心の余裕がなく「もっと○○してあげればよかった」「こんな母親でごめんよ」と後悔ばかりしてしまったドン底の誕生日でしたが。

2歳の誕生日は、1日中ゆっくりと2人で過ごすことができ(旦那さんは仕事でした)、穏やかな気持ちでお祝いすることができました。

↑スイーツ作りがめっぽう苦手だけどがんばって作ったバナナケーキ。飾りつけのセンスのなさよ。

心の余裕がなくなると息子にキツく当たってしまうため、心の余裕を保つことを意識して過ごしてきた数ヶ月。

わりとノンストレスで家事・育児・仕事をたんたんとこなすことができていました。

しかし、誕生日を過ぎて数日したころから、子育てが思い通りにいかないと感じることが多くなり、イライラガルガルすることが増え始め。

それからは、負の坂道を転がり落ちるがごとく、どんどん負のスパイラルに陥っていきました。

たとえば、

息子の行動を注意する→言うことを聞かない→ムリヤリやめさせる・阻止する→ギャン泣き→イライラ・うんざり・自己嫌悪・反省

とか、

息子の行動を注意する→言うことを聞かない→放置→食べ物や皿を床にポイポイ落とす・物をぶん投げられる→イラァッッ!!とするけど我慢→疲れて無感情・無表情になる

みたいな。

抜け出したいけど抜け出せない負のループにハマってしまい、思い通りにいかないことにかなりストレスとイライラが溜まりまくってました。

そのうち、旦那さんのちょっとしたことにもイライラしたりカチンときたりしてしまうようになり。

ネガティブな方にフォーカスがぜんぶ向いてしまっていて、「あれもダメ」「これもダメ」状態になってしまってました。

これはいかん、末期症状だ!

1人の時間をつくってリフレッシュしたいけど、そんな時間もとれない状況だったため、子どもとの関わり方を見直そうと考えました。

そして、前からずっと気になっていた、とある育児書を手に入れました。

わたしがよく読んでいるブログのママさんが紹介されていた本で、「子どもの困った行動に対して理屈で具体的に説明されているのでわかりやすい」、と評されており、ずっと読みたいなぁと思っていた本です。

で、読んでみました。

・・・

・・・

・・・

読んでみたものの、ピンとこない!

子どもの行動について具体的に説明されていて、「2歳児の発達段階は~~だから、○○が理解できないので、□□と言葉をかけてあげましょう」、とわかりやすく書かれてあるのですが。

なぜか、全然頭に入ってこない。

試しにそのとおりに息子にアプローチしてみるものの、やりながら自分で自分をしらじらしいと感じてしまい・・・

そのため、息子の行動も変わらず、「イヒヒ」と笑いながら食べ物をポイポイ床に落としてくる(わざとじゃないだろうけど、わざととしか思えん)。

ムカつくやらイライラするやら、思い通りにいかなくて空しいわで、これまでの感情が溜まりまくっていたわたしは、感情が爆発してうわぁー!と大泣きしました。

布団にもぐりこんでうおー!と大泣きするわたしに、そばまでやってきて笑いながら覆いかぶさってくる息子。

まるで嘲笑っているかのようだ!

そのまま2人で昼寝したのですが、いっぺん大泣きしてスッキリしたわたしは思いました。

わたしに今必要なのは、理論や方法じゃない、と。

自分に対してできないことは息子に対してもできないし、自分がもっていないものは相手に与えられない。

まずは、自分の心を整えることの方が先だと。

自分の芯がしっかりとしていて、自己肯定ができていれば、自然と子どもへの良いアプローチはついてくるものではないか、とフト思いました。

それができたうえなら、理論や方法を学ぶことに価値があると思うけど、今のわたしは土台がしっかりできていないので、うわべだけで言葉や行動を変えてもほとんど意味がない、と。

ということで、その育児書は今は脇に置いておくことにしました。

心の余裕をなくしていた原因に焦点を当ててみた

息子にイライラガルガルすることが増えてしまったのは、自分自身の抱える大きな不安が原因だったと、俯瞰してみて気づきました。

その不安によって心の余裕がなくなって、思い通りにいかない息子にイライラガルガルしてしまったんだな、と。

現に、心の余裕があるときは同じことをされても、感情的にならず客観的に対応できていたから・・・。

わたしの抱えていた大きな不安は、

ひとつは、新型コロナウイルスにかかってしまったら・・・という不安。

もうひとつは、自分のしていることはこれでいいのか・・・という不安。

ブログを書いている今は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、全国に緊急事態宣言が出されています。

わたしの住んでいるところは大都市で、最初に緊急事態宣言がでた7都府県のうちのひとつ。

現在パート勤務しているところは小売業のため、営業休止にはならず、今も保育園に預けながらパート勤務しています。

1ヶ月前ごろは、まだ情報に疎く「万が一息子にうつったら・・・」ということを考えると怖くて怖くて、住んでいる同じ区内で感染者が出たときは、まるで死神がすぐそこまで近づいてきているかのような恐怖を感じました。

でも、生活のことを考えると、仕事を休むという選択肢はもてず。

うつるのは怖い、でも収入ゼロになるのもキツイ・・・と不安と恐怖でどうにかなりそうだったわたしは、情報を取捨選択するようにしました。

過度に不安をあおる情報は避け、客観的な事実や安心させてくれる情報をキャッチするようにしました(子どもの重症化率もめっちゃ調べた)。

そうしていくうち、過度に不安がることはなくなり、「どれほど不安になったところで、今自分にできる行動は自粛・予防・3密を避けることくらいである」ということにも気づかせてもらい、客観的に考えることもできるようになりました。

むしろ収入が減って生活が困窮してしまう人たちの問題もかなり深刻で、働けるわたしや旦那さんはラッキーな方だとすら思ったりもしました。

でもそれは、同居の家族に重篤化するリスクの高い人がいないからそう思えるだけで・・・。

もしわたしが感染してしまったら、職場の人たちや、保育園の先生たちや子どもたち、またはどこかですれ違った知らない人たちにうつしてしまっているかもしれません。

その人や、その人の同居する家族の中に、重篤化するリスクの高い人がもしいたら・・・

職場や保育園で感染者が出たときに、社会からどんな被害を受けるか・・・

営業を停止せざるを得なくなったときに、職場の人たちの収入は・・・保育園の先生たちは・・・同じ保育園に通う保護者の方々の仕事は・・・子どもたちの行き場は・・・

と、「もしも」を想像していけばキリがなく、出口の見えない大きな不安が湧いてきました。

そしてこの不安は、事態が収束するまで働き続ける間、ずっと消えないものです。

今のわたしは保育園に子どもを預けて仕事に出ているけど、この行動に100%責任をとれるかというと、ハッキリ言ってとれないし、「わたしの行動はこれでいいのか?」と、自分の行動に自信ももちきれていません。

収入のために今は働くことを選んでいるけど、それはとても個人本位な選択だし、保育園への感染リスクを考えれば(社会を優先に考えれば)家庭保育に協力すべきなのだと思う。

でも、生活のためにはお金が切実に必要なわけで。

そんな思考をグルグルとくり返しながら、とにかく感染しないよう守るべき行動はしっかりと守って、仕事を続けている今です。

たぶん、今働いている人は誰しもが同じような不安を抱えているんだと思うのですが。

ウイルス自体よりも、それをとりまく人たちや社会への影響の方が怖い。

早くワクチンが開発されるなり、集団免疫を獲得するなりして、新型コロナウイルスがインフルエンザと同じくらいの扱いになる世の中になってほしい。

もうひとつ、自分を追い込んでしまっていたことがありました。

それは、いつのまにか「○○しなきゃ」「○○しなければならない」で頭の中がいっぱいになっていたこと。

この未曾有な状況は「働き方を見直すときだ」「変革を起こすときだ」などといろんな情報を目にするにつけ、イノベーションの波が押し寄せているのを感じるたびに、いろんな意味で「わたしはこのままでいいのか?!」と焦りや不安にあおられていました。

冷静に考えて、大げさに言えば「○○しなきゃいけない」なんてことないわけで・・・

いったんそれらを頭の中からポーーーンとおろし、真っ白にしたことで、心の余裕を少しとりもどすことができ、まわりの声ではなく自分の声を聞けるようになりました。

以前のわたしのままだったら、たぶん不安と恐怖に打ちのめされて、自分で気づいたり考えたりすることを放棄して、誰かの意見や言葉に頼りきったり、頭の中で勝手に作った妄想でストレスにやられていた気がします。

それくらい、客観的に考えられず、「○○さんがこう言うから」「○○さんがこう思うかもしれない」とまわりの人の意見や感情で動いて、自分という軸をしっかりともてていなかったわたしでした。

でも、ひだまりの家サンポミチのカウンセラー多美子さんとたくさん話し、講座を受け、自分を変えるためにカウンセリングを受け、じっくりと自分自身と向き合ってきたことで、ゆっくりと着実に強くなった自分を感じています。

こんな状況だからこそ、自分の軸をしっかりもつことを必死に考えることができ、強制的に鍛えられた気もします。

自分で気づけるようになったこと、客観的に考えられるようになったことは、ほんのちょっとのことだけどわたしにとってめちゃくちゃ大きな進歩!

自分で自分を認めることが苦手でしたが、いつのまにか変化していた自分に気づくと、自然と自分を認めることができます。

『自分で気づき、変わりたいと思ったときから自分を変えることができる』ということは、多美子さんが一貫して伝え、教えられていること。

『そのための大きな一歩は、【気づく】こと』だと教えてもらって、その言葉の意味が今ではすぅっと腑に落ちています。

わたしの歩みはとてもゆっくりですが、着実に変化していて、元の自分にもどらない。

この“元に戻らない”ことが、本当にスゴイところだと感じていて。

それは、多美子さんの言葉の中にさりげなくうながされる気づきに、ハッと“自分で”気づけた経験を積み重ねているからなんだと思います。

なんにしても、自信をもつこと、自己肯定感をもつことは、ものすごく大事だ!

息子をどうにかしようとするのではなく、まずは自分のことを。

ちょっとずつ自分を強くしながら、心の余裕をもちながら、人にやさしくしながら、日々を過ごせるようになってきたいです。

追記

「早くワクチンが開発されるなり、集団免疫を獲得するなりして、新型コロナウイルスがインフルエンザと同じくらいの扱いになる世の中になってほしい。」

↑と書いてしまったけど、あまりにも他人任せで思いやりのない言葉だったなと反省しました。

ワクチンの開発に日々取り組まれている方、集団感染が発生しないよう日々対策に取り組まれている方、感染のリスクのある中医療に努めている方、目に見えないところでがんばっている方々がいるということを、考えられていなかった・・・です。

突然不自由な状態になげこまれ、不安やストレスを感じているのは、みんな同じ。

こういう状況だからこそ、自分にできないことにあーだこーだと文句を言ったり不平不満を言ったりせず、今自分にできることに集中し、「大丈夫ですか?」と他人の気持ちを思いやれる人でいたい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

みんながホッと安心できる場所
~ひだまりの家サンポミチ~

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保育園0歳児クラスに入園してから1年。実際病気でどれくらい休んだ日があったのか数えました。

これからはじめて保育園に入園する、入園を考えているお母さんたちの心配なことのひとつに、「子どもが病気になったとき」があると思います。

子どもの急な発熱で仕事を早退したりお休みしたりするのは、職場にも迷惑をかけてしまうし、寛容な職場であったとしてもちょっと気がかりですよね。

保育園に入園してから1年間、実際どれくらい病気でお休みした日があったのか?数えてみました。

これから仕事復帰されるお母さん、仕事を始めるお母さんの参考になれば幸いです。

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保育園にはじめて入園してから1年間の登園日数と病欠日数を数えてみた

昨年の2019年4月から、保育園(0歳児クラス)に入園した息子。

わたしにとってもはじめての保育園入園で、最初のころはなにをしていたか覚えていないくらい、バタバタでアップアップの1年間でした。

いろいろ大変なことがあったけど、その中のひとつが、やっぱり息子が病気になったとき。

保育園に入園するまで病気になったことがなかったので、はじめての病気に右往左往した1年でした。

小児科の先生にも、「最初の1年は覚悟しておいた方がいいよ」と言われましたが、入園してからはマジでしょっちゅう熱を出してた気がします。

そして、息子だけでなくわたし自身もしょちゅう体調を崩した1年でした。

息子の風邪がことごとくわたしにもうつり、息子が発熱したあと自分も体調崩す、ということがけっこうありました。

これまでほとんど熱がでたことがなく、タフな方だと自負していたのですが、ただ単に風邪の菌が少ないところにいただけだったみたいです。

それくらい保育園はすさまじい。

いろんな菌やウイルスが蔓延する中で働いてる保育園の先生や、上のクラスで元気いっぱいに遊んでる子どもたちって一体どんだけ強いんだ・・・

人類最強なのは、実は保育園の先生なんじゃないかと思ったくらい、親子ともどもバタバタと体調を崩した1年でした。

ということで、実際に息子が病気でどれくらい休んだのか、数えてみました。

病欠日数だけだとボリュームがわかりにくいので、登園する予定だった日数に対して、病気で休んだ日数がどれくらいだったか、を数えました。

ちなみに、保育園をお休みする基準は熱が37.5度以上ある場合です。

さっそくですが、以下その月ごとの日数です。

登園予定日数 病欠日数
4月 12
5月 15
6月 16
7月 17 4(手足口病
8月 16
9月 15
10月 15
11月 17
12月 20
1月 15 3(+早退1…帯状疱疹
2月 17 0(+早退1…嘔吐)
3月 19

こうやって見てみると、やっぱり入園当初の4月~7月に病欠が多かったんだなぁと思います。

8月からぱったりと減ってますが、そういえばお盆で実家に帰省中熱が出たものの、実家から戻ったあとパワフルになっていた気がします。

いっぱいおじいちゃんおばあちゃんに遊んでもらったし、実家は田舎で自然豊かだし、美味しいものもたくさん食べたのでパワフルになったのか?

理由はわかりませんが、8月あたりから急に体が強くなり、年末までほとんど休むことなく登園できました。

同じクラスの子が熱でお休みしてるなか、1人だけひとつ上のクラスの子たちに混ざって外で遊んでいたくらい、急激に体が強くなった息子。

「よく食べるから体が強いのかもですねー」と笑って話していたら、年明けの1月に突然40度以上の高熱が2,3日出ました。

40度以上の熱が2,3日も続いたことは今までなく、免疫力がある程度ついてきてからの高熱だったので、インフルエンザの検査の結果は陰性だったものの、けっこう強力なウィルスだったのだと思う。

で、それがうつったのか数週間後にわたしも38度以上の熱と強烈な関節痛と悪寒が2,3日続いてダウン。

わたしもインフルエンザの検査は陰性だったので、まちがいなく只者ではない謎のウィルスでした。

それからは、早退が数回あったものの発熱はなく、3月末まで皆勤賞でした。

「最初の1年は覚悟しといた方がいい」

保育園に入園した当初は大変だったけど、息子の免疫力が思ったよりも早くついてくれたので、後半は仕事や自分のやりたいことをやる余裕もできました。

でも、入園当初は本当に大変だった・・・

子どもによって免疫力がつく個人差はあると思いますが、保育園に入園してから最初の1年は覚悟しといて損はないと思います。

わたしの場合、そもそも余裕があまりない状態での入園だったので、トリプルパンチで大変でした。

当時は深夜にバイトし、昼間に仮眠+フリーランスでパソコン関係の仕事をしていたので、息子が発熱したときは仮眠もとれずパソコンの仕事もできずな日々が続き、体力的にも精神的にもマジできつかったです。

「息子が病気したときは一緒にいてあげたい」という親心があったので、息子が発熱しても職場に影響がないよう、深夜のバイトを選んでいたのですが。

体の限界を感じたので、保育園に慣れ始めた8月から、子どもの急な発熱にも柔軟に対応してくれる日中の仕事に変えました。

(残業がなかったり、子どもの急な発熱でもお休みさせてくれるところはなかなかないと思うので、店長さんには本当に感謝です)

十分な睡眠をとれるようになったので、だいぶ楽になりました。

「母ちゃんが倒れたら家がまわらない!」とお友だちの先輩ママさんが言っていたのですが、そのとおり過ぎて激しく同意します。

母ちゃんが倒れたらマジで家がまわりません。

息子と旦那さんにはしっかり食べさせて自分はテキトーなものを食べたり、自分のことを後回しにしたりしてしまいがちですが(後回しにせざるを得ないときもありますが)、息子も大事だけど自分も大事にしなきゃとちょっとずつ行動を意識できるようになった1年でもありました。

息子はどんどん自我が芽生えて、「こうしたい」「ああしたい」という欲求がどんどん出てくるので、自分の欲求とどうバランスをとっていこうか?考えあぐねている今です。

わかりやすく言えば、「今遊んでほしい」息子と、「今コーヒー飲んでひと息つきたい」わたし、でどうするか?みたいな。

子どもとの遊び方がわからない、苦手、かつ1人の時間が好きなわたしとしては、バランスをとるのはけっこう大事だなと感じてます。

話がかなりそれてしまいましたが、とにかく最初の1年は、とくに最初の2,3ヶ月は、できるかぎり余裕のもてる状態でいた方がお母さんの体が楽だと思います(むずかしいかもですが)。

けっこうな確率で子どもが病気になりますし、子どもからお母さんにうつることもあるので…。

以上、わたしの息子のケースですが、保育園に入園してから1年どのくらい病気でお休みしたかのまとめでした。

ちょっとでも参考になれば嬉しいです。

4月から1歳児クラス。新しい担任の先生を見て思わず泣いた。

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4月から1歳児クラス。新しい担任の先生を見て思わず泣いた。

昨年の4月に、0歳児クラスに入園した息子。

今年の4月1日から、ひとつ上の1歳児クラスになりました。

新型コロナウイルスの影響で入園式が中止になったため、新しい担任の先生の発表は4月1日から壁に掲示してお知らせされることになっていました。

で、登園と同時に新しい担任の先生を見てきた今朝。

率直に、ショックを受けました。

これまで担任だった、大好きな先生がまったく違うところに変わっていたこと。

新しい担任の先生たちはほどんと知っている先生だったけど、言葉を選ばずに言うなら自分の中で印象の薄い先生たちばかりだったこと。

「この先生だったらいいな」と期待していた先生たちが、ことごとく違うクラスの担任になっていたこと。

貼りだされている掲示を見て、思わず顔が固まってしまいました。

新しいクラスに息子をあずけながら、カチコチの笑顔で先生たちと少しお話して、園を出て。

車に乗り込んだわたしは、ざわざわとして落ち着かない自分の心を冷静に落ち着かせようとしたけど、やっぱり自分が今感じている気持ちをいっぺん出したいと思いました。

ショックで泣きたかったわたしはツーと涙をこぼしました。

前日まではそこまで心配していなかったし、「先生が変わっても大丈夫」だと思ってました。

でも、予想以上にショックを受けてしまいました。

一番のショックは、大好きだった先生が、まったく違うところに変わってしまっていたこと。

心のどこかで、「担任は変わるかもしれないけどまた会えるよね」と期待していました。

ですが、その先生は息子が通っている分園から本園の方の主任に変わってしまっていたので、分園内で会えることがなくなってしまいました。

その先生は、わたしが「この保育園にしよう」と決めたきっかけになった先生でした。

0歳から息子をあずけることにめちゃくちゃ不安になっていたわたしの心を、明るく安心させてくれた先生。

いつも笑顔で、おもしろくて、お迎えに行ったときはいつも息子の様子を明るく楽しく話してくれた先生。

先生は、息子のことをいつもポジティブに話してくれました。

はじめての育児で小さなことでも不安になったり心配しがちだったわたしにとって、先生のその明るさやポジティブさはとても安心させてくれました。

前日もお迎えに行ったとき、笑ってお話して、お礼を言ってお別れした先生。

心のどこかでまたいつものように会えることを期待していたし、会えなくなると思いたくなかったので、ちゃんとお礼が言えませんでした。

もっと、たくさんのお礼が言いたかったな。

本園と分園はめちゃくちゃ離れているわけではないので、二度と会えないわけではないんだけど。

毎日会えなくなったことが予想以上にショックで、すごく悲しいです。

保育園の先生の存在はめちゃくちゃ大きい

昨年、入園式に参加したとき、担任の先生の発表をみて泣いているお母さんたちがいました。

はじめてだったわたしは経験がないので、「そっか、担任の先生ってそんなに重要なんだな…」と泣いているお母さんたちを見ながら思ったのですが。

今年自分が経験してみて、泣いていたお母さんたちの気持ちがわかった気がしました。

たぶん、その涙にはふたつの涙があったんだと思います。

期待していた先生が担任だったときの、うれしくて安心して泣く涙と。

期待していた先生が担任じゃなかったときの、ショックで不安で泣く涙。

わたしは、後者でした。

自分では予想していなかったほどに、悲しいと同時にものすごく不安を感じました。

息子も大きく成長して、すっかり保育園に慣れてきたというのに、担任の先生が変わってこれほど不安を感じていることに、自分でもおどろいています。

なにが不安かと言うと、「息子にとって安心安全であるだろうか」という不安です。

身体的な安心安全、ではなく、心の安心安全があるだろうかという不安です。

息子の気持ちに気づいたり、受けとめてくれたり、理解してくれたりしてもらえるだろうか、という不安。

自分がそれがまっっっっっっっっっっっっっっっったく出来てないので、それを保育士さんに求めるのはめちゃくちゃおこがましいにも程があるんだけど。

自分の息子でさえ、イラっ!ときたりブン殴りたくなることがマジでたくさんあります。

言っても言っても言うことを聞かない伝わらない息子に、感情的に怒鳴ってしまうこともたくさんあります。

息子の気持ちをわざとムシしたり、押さえつけようとしてしまうことがたくさんあります。

保育士さんだって、イライラしたり感情的になってしまうこともあると思う。

そんなときに、子どもに対してどんな行動を選択し、どうしていきたいと思うかは、それぞれの保育士さんの生き方考え方によって千差万別の選択があると思います。

で、やっぱり親としては「自分が大切に思うことを大切にしている先生にみてほしい」と望みます。

だから、どうしても「この先生だったらいいな」という期待をもってしまいます。

わたしが大好きだった先生は、明るくておもしろくて、不安なことも心配なこともぜんぶポジティブに変えるような先生でした。

ワンオペ育児で行き詰まりまくっていたわたしにとって、その先生の明るさやポジティブさが自分にも息子にも必要だと感じました。

だから、はじめての保育園でもこの一年間安心して息子をあずけることができたなと思います。

で、今回新しく担任になった先生は、ちょっと一歩引いているというか、大人しめな先生で。

以前の担任の先生が、わたしとまったく真逆なタイプの先生だとすると、今回の担任の先生は、わたしと似たタイプの先生というか。

超勝手で失礼な表現をすると、わたしが保育士になったらこんな先生かなという先生。

人との間にちょっと一歩引いていて、自分からは心の底から子どもを思いっきり抱きしめれない感じ。

子どもに対して冷たいという意味ではなく、“人”に対して無意識に一歩線を引いてしまう感じが、わたしと同じタイプだなーと思ってしまう先生。

わたしと同じタイプの先生だから、息子の気持ちを心から受けとめてくれるか、不安になってしまうのかもしれません。

新しく担任の先生が変わって、予想以上にショックを受けて泣いてしまうほど、先生の存在の大きさにあらためて気づきました。

息子の成長に関わってくれる先生たちの存在はとても大きいし、とても重要だな、と

自分はどうしていきたいか?

とはいえ、もう決まったことなので。

物事には、必ず良いところと悪いところがあります。

これは、ひだまりの家サンポミチのカウンセラー多美子さんから、くり返し何度も教えてもらって気づけるようになったことです。

あるとき、自分に自信がもてないわたしに、自分の悪いところと良いところをそれぞれ書き出してっと多美子さんに言われて書き出してみたことがあって。

その比率は、悪いところが80%で良いところが20%でした。

そしたら、「20%も良いところがあるよ!」と。

「悪いところをどうにかしようとするんじゃなく、良いところが20%もあるんだから、こっちのほうを伸ばしていこうよ」と気づかせてくれて。

多美子さんから何度もくり返しくり返しそう教えてもらったことで、わたしは悪いところではなく良いところに気づけるようになりました。

今回のことに関しても、悪いところばかり見て「これから1年不安だ」とネガティブになることもできるけど、良いところが必ずあるし、ポジティブに考えることもできます。

出来事にはじめから良いも悪いもなく、良いとするか悪いとするかは自分次第で、行動は選ぶことができます。

この状況から、わたしが学べることは何だろう。

この状況に対して、わたしができることはなんだろう。

ひとつ思ったことは、これまでの1年間は自分に余裕がなく、息子のことを保育園にほぼ丸投げしてしてたなということです。

はじめての保育園と、はじめての子育てと、仕事と家事の両立で、毎日アップアップだったわたし。

いつも時間とタスクをこなすことに追われて、息子のことを全然見てやれてなかったし、とにかく余裕がなかったなと思います。

良くも悪くも、「この先生なら大丈夫」と息子のことをぜんぶまかせっきりにしてました。

園に毎日出す連絡ノートがあって、そこに子どもの様子や機嫌を書くところがあるのですが、深く考えずいつも「良」に〇をしていました。

最近になって、ようやくその欄がある意味や、息子の機嫌の微妙な違いに気づけるようになりました。

心の余裕を少しずつもてるようになったので、“いっぱい食べさせる”とか“いっぱい遊ばせる”とか“いっぱい寝る”というハードな面でなく、気持ちや感情というソフトな面に意識を向けられるようになったのだと思います。

なので、これからは息子のことを保育園に丸投げせず、息子のソフトな面もケアできるように、些細な変化とか気持ちをキャッチできるようにしていきたい。

そして、もうひとつ思ったことは自分自身の問題。

“人”との付き合いです。

前述のとおり、わたしは“人”との間に一歩引いてしまうクセがあります。

「人を信じることができない」というと大げさすぎるけど、心のシャッターを閉じているところがあります。

たとえていうと、相手から抱きしめてもらえれば抱きしめられるけど、自分からは抱きしめにいけないし、心から抱きしめられない、というか。

先生たちのことを信じれていないと、それは先生たちにも伝わってしまうだろうな、と。

で、そんな自分のクセも少しずつ変えていきたいなと思っています。

息子のことについて、気になることや不安なことも含めて、先生たちと自分からコミュニケーションをとれるようになっていきたい。

それは、保育園の先生たちとの関係にかぎらず、“人”との付き合いに対しての今の自分のテーマ(課題)だなと思ってます。

新しい担任の先生は、自分と同じタイプ(だと勝手に思っている)の先生なので、その先生の良いところを信頼して良い関係を築ける自分になっていきたい。

そんなふうに思いました。

保育園にはじめて入園してから1年、めまぐるしく大きく成長した息子。

先生たちのおかげで、覚えたことやできるようになったことがたくさんありすぎるくらいあって。

毎朝、登園したときに一人ひとりの先生にハグしてまわる息子を見て、先生たちと息子の信頼関係を感じました。

たくさんの愛情で息子と関わってくれた、これまでの担任の先生たちに心から感謝をして。

これからますます心の面で成長していく息子を、関わってくれる人たちに感謝をしながら協力しながら、見守りケアしていける自分になりたいと思います。

これから1年、また息子と一緒にがんばっていこう。

追記

かなり自己中心的な自分の気持ちを書きましたが。

ブログを書いた後、大変な状況の中保育に努めてくださっている先生たちのことを思いやり感謝することができていなかったな、と気づいて猛省しました。

感謝の気持ちを忘れてはいけない。

これは本当に大切なことでした。

自戒の念をこめて。

【ワンオペ育児の悩み】息子の歯磨き問題について旦那さんから言われたことにキレちゃった話

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息子の歯磨きがきちんとできていない問題

現在1歳9ヶ月になる息子。

チラホラだった歯も、今ではほとんど生えそろいました。

歯が生えてくると、しなければならなくなるのが歯のケア。

これが、わたしにとっては悩みのタネで。

なぜなら、息子がめちゃくちゃ抵抗しまくるので、なかなか磨くことができない。

そして、めちゃくちゃ抵抗されるのでわたしもだんだんイヤになって、やりたくなくなってくる。

本当は習慣づけて慣れさせなければならないけど・・・。

歯磨きをしようとするにも、息子はわたしの膝の上にじっと頭を乗せてられないし、全力でブラシに噛みついてきたりします。

まだ2歳にも満たないと言えど、全力で抵抗する力はものすごく強いです。

マウントをとってムリヤリ磨けば、よけい歯磨きが嫌いになってしまう気もするし。

それに、ごはんを食べさせたりお風呂にいれたりするだけでも、けっこうエネルギーを消耗してしまうわたしは、歯磨きにまで注げるエネルギーが残っていない。

(作ったごはんを床に落とされるわ、ごはんだらけの手で顔や服を触りまくるわ、皿をひっくり返されるわ、お風呂から上がっても裸で逃げ回るわ、ドライヤーから逃げ回るわ・・・それらを毎日受けとめるだけであたしゃヘトヘトです)

くわえて超めんどくさがり屋という性格もあるので、「やらなきゃな・・・」と気にはしつつ、ついついやらない日々が続いていました。

そんなわたしに、「ちゃんと歯磨きしよるん?」と度々たずねてきていた旦那さん。

そう聞かれるたびに、ちゃんと出来ていないことをツッコまれてギクッとする気持ちと、口だけはさんで何もしない旦那さんにイラっとする気持ちとで、うやむやに返事をしていたわたし。

しかし、あるとき旦那さんからついに責めるように、

「ちゃんと歯磨きしよるん!」

「歯磨きした方がいいんじゃないん!」

と強く言われて。

そのときに、わたしの中でたまっていたものがブチっとキレました。

あんた(旦那さん)は息子の歯を磨こうともしたことがないくせに、えらそうに命令すんな!!

全部わたし任せか!! 一緒にやろうという気はないんか!!

正論もってきて、できてないことに文句つけるだけかよ!!

言うだけなら誰でもできるっつぅの!!!

(↑かなりブチ切れてます)

と、とっさに弁の立たないわたしはズバッと言い返すことができず。

「ちゃんとできてないよ。そりゃ歯磨きしないよりはした方がいいよ」とだけ、怒りをこめて言い放ちました。

そのあとも、怒り心頭でメラメラと怒りがおさまらず。

とっさにキレッキレの返し文句を言えなかった自分にもイライラ。

で、イライラしてしまうと、息子のちょっとした行動にもイライラしてしまうという悪循環。

「あ~息子に当たったらいかんいかん!」と自分の気持ちをなんとかもちなおすのに必死でした。

育児を丸投げされているかのように感じた旦那さんの言葉

これまでも、こういうことで旦那さんにブチっとキレたことが何度かありました。

口だけはさんで、旦那さんはなにもやってないくせに、というパターンです。

以前の記事にも似たような出来事を書いたことがあるのだけど↓

nikkijyuku.hatenablog.com

「野菜もっと色々食べさせた方がいいよ」とか、「夜寝る時間遅いよ」とか、正論だけ言われるとカチンときます。

そんな正論は百も承知なわけで、子育ての本当の大変さって、全然思うとおりにいかないことです。

その大変さを共有するでもなく、気持ちを理解するでもなく、ただできてないことに口だけはさんでくるかのような旦那さんの物言い。

そんな旦那さんに、まるでわたし1人に子育てをすべて丸投げされているかのように感じて、そのひとりぼっち感とプレッシャーと「自分の気持ちをわかってくれない」という悲しさで、つぶされそうな気持ちになりました。

たぶん、わたしがそう感じたという話をしたら、旦那さんは目玉が飛び出るほどビックリするでしょう。

旦那さんには、そんなつもりで言った気はまったくないだろうから。

旦那さんの名誉のために言っておくけれど、旦那さんは息子の面倒をよくみてくれるし、息子を溺愛していて、すごく子煩悩な父親です。

わたしがイライラガルガルしてるときでも、息子をやさしく受けとめてくれるし、わたしよりも母性が強いかもと感じる場面もたくさんあるくらい、良いパパです。

わたしが熱で動けなくなったときは、息子のごはんの用意をしたりお皿を洗ったりしてくれたこともあります(たった1日だけど。大切なのは日数ではない。でもたった1日だけだけd(以下省略))。

わが家での家事育児の比率は、わたしが9.5割、旦那さんが0.5割という感じで、ほぼわたしがやってます。

なぜなら、旦那さんの仕事がかなりのハードな仕事(なかなかのブラックな環境)で。

休日出勤もざらにあるし、朝早く出勤して日付をまたいで深夜に帰ってきて、またふつうに朝出勤することもしばしば。

それに比べれば、わたしの仕事内容はハードなわけでもなく、時間もある。

なので、家事や育児はわたしがみようと思ったのはごく自然な流れで、抵抗もなくやってきました。

でも、わたしが家事育児をするのを“アタリマエ”かのようにされるのは、やっぱりめちゃくちゃカチンとくるし、気持ちをわかってもらえないと悲しくなります。

子育てにかぎらず、家事についても「掃除しといてよ」とか「洗濯しといてよ」とサラッと言われると、めちゃくちゃカチンときます。

「家事育児も無賃労働みたいなもんなんだぞ!大変なんだぞ!」と言ってやりたくなります。

だって、朝から息子が夜寝つくまで、自分の時間はないに等しい状態。

旦那さんから「おかわり」と椀をさしだされるだけで、「あたしゃフネさんか!自分でできるやつは自分でやれ!」と言い返したくなります(←まぁ家ではなるべく休ませてやりたいからめっちゃ不機嫌につぐけどさ)。

この大変さを思い知れば、きっとわたしへの言葉も変わってくるはず・・・。

たまに、息子のオムツ替えを旦那さんにお願いして、あたふたしている姿を見て、「大変さを思い知るがいいフフフ」と心の中で嘲笑するのは、きっとわたしだけではないはず。

“男女”という生き物がそもそも違うから、こんなに違うのか?

歯磨きできてない問題について、旦那さんから言われた言葉にかなりブチ切れたわたしは、いろいろ考えました。

これまでも、旦那さんからの口だけはさんでくるかのような物言いにカチンときたことがあり、そのたびに「もっと一緒に悩んだり考えたりしてほしい」と感じてきたけど。

そもそも男性と女性で考え方が違うから、子育てについてもお互いに求めているものに違いがあるんじゃないか、と。

わたしたち夫婦のことを男性と女性という一般論に広げるのはかなり無謀だし無礼だしそういうつもりではなくて、男性性と女性性のエネルギーの違いを、私たち夫婦に当てはめてみると。

たとえば、旦那さんは「こうしたほうがいいと思っているけどできていないところ」について、“改善”を求めます。

ちゃんと歯磨きできてるかとか、ものもらいができたときはちゃんと目薬指してるかとか。

一方わたしは、 「こうしたほうがいいと思っているけどできていないところ」について、一緒に悩んだり、“気持ちの理解”や“共感”を求めます。

なんでできていないのかの背景に気づいてほしかったり(暴れまわる息子に歯磨きや目薬がカンタンにできるわけがない)、そもそも毎日仕事や家事や育児やらでいっぱいいっぱいな気持ちをわかってほしいし、どうしたらうまくいくか一緒に考えたりトライしてほしい。

こういう、問題解決志向の男性性と、共感志向の女性性が、子育てについてお互いに求めているものに表れているのかな、と。

だから、理解されなくてすれ違ってしまって、傷ついたり激怒したりしちゃうのかな、と。

そういうふうに考えてみたとき、なんとなく腑に落ちる部分もあり、旦那さんに一方的に「ああしてほしい」「こうしてほしい」と求めすぎてたなということにも気づきました。

旦那さんに“気持ちの理解”や“共感”を求めるのは、旦那さんには理解しづらい感覚(女性的な感覚)で、非現実的かもしれない。

相手に一方的に期待するのは、自分のストレスを増大してしまうだけ。

「旦那さんとわたしはそもそも生き物が違うんだ」と思えば、旦那さんがわたしの気持ちではなく現状のできていないことにフォーカスしても、前向きに諦めもつく気がしました。

「ひろしってすごいわ」と言った旦那さんの気持ちは、父親にしかわからない

わたしは、頻繁に会って話せるようなママ友が身近にいないし、おまけに実家も離れているので、ワンオペ育児な状態。

なので、いろんな悩みや不安をついひとりでためこみがち。

だから、旦那さんに対して子育ての大変さを共有してほしかったり、せめて自分の気持ちをわかってほしいと当たってきたけど。

ひだまりの家サンポミチでほかのママさんたちと会う機会があって、ママさんたちと話したとき、めちゃくちゃスッキリしたり、ホッとしたりすることがたくさんありました。

同じ女性同士で話を聞いてもらえるだけで楽になり、共感してもらえると「わたしだけじゃないんだ」と気づけて、すごく心がかるくなりました。

変だけど、「こんなことで悩んでるのは自分だけなんじゃないか」と本気で思っていて、だから「わたしだけじゃないんだ」と気づけることは、わたしにとってとても大きなこと。

そのことを思い返せば、わたしが本当に求めている、“共感”や“気持ちの理解”の先にある“安心感”は、相手の女性性から得られるものなのかな、と。

男性性強めの旦那さんにそれを求めるのは、非現実的で酷だったかなと思います。

やっぱり、ママの気持ちはパパではなくママにしかわからない。

それは旦那さんも同じで。

あるとき、クレヨンしんちゃんの映画を観ていたときに、「ひろしってすごいわ」とおもむろに漏らした旦那さん。

わたしには、「ひろしがすごい」と言われても全然ピンとこなくて、そう言った旦那さんの気持ちがわからず。

ママの気持ちはママにしかわからないように、一家を支えて立つ大黒柱の気持ちは、父親にしかわからない。

わたしは何度か、息子のことばっか優先して旦那さんにテキトーな態度をとって、「がんばってるのにヒドイ」と言われてもスルーしてたことがあったけど(←ひどい)。

旦那さんは旦那さんで父親として一生懸命がんばっていて、その気持ちを全然わかってあげれてなかったことがあったなと思います。

子どもが生まれてから、旦那さんに対して「ああしてほしい」「こうしてほしい」という要求が莫大に増えて。

要求が増えた分、旦那さんに対してイライラすることも莫大に増えて。

感謝できなければ夫婦仲は最悪になるぞと頭ではわかりつつも、相手に期待することは自分のストレスになるだけだと頭ではわかりつつも。

旦那さんに感謝どころかイライラしてしまうばかりで、「自分の気持ちをわかってほしい」と要求ばっかしてしまってました。

でも、旦那さんを知ることで、自分自身についてもわかり、自分で自分をイライラさせてしまっていたことに気づくことができた気がします。

子育ての大変さを知れば自分の気持ちをわかってもらえると思ってたけど、相手を変えることはできないし、それは勝手な思い込み。

子育ての大変さを共有することが大切なのでなく、相手を知り“違い”を認めることが、子育てをうまくまわしていくためにも、夫婦の関係を良くするためにも大切だなと思いました。

ひろしはひろし、みさえはみさえであるからこそ、お互いが活かされ家族がまわっていくんだと。

そして、どんな小さなことでもママさんたちと話すことは、ワンオペ育児なわたしにとってすごく必要なこと。

ついついひとりで抱え込みがちだし、それになかなか自分が真剣に悩んでいることをだれにでも話せるわけではなく(理解されなかったり雑に扱われるのがイヤだから)、言いだしずらかったりするけど。

こういうわたしだから、ひだまりの家のように安心して悩みを吐き出せ、認めてもらえる場所は、本当に必要だしありがたい。

心の余裕を保つことは、子育てにはかなり大事だし必要なことだから。

ママさんたちと話して心がかるくなったぶん、また子育てをがんばることができます。

これからも旦那さんと一緒に息子を育てていくけど、“一緒”の意味をごっちゃにしないようにしよう。

そしてなるべく、旦那さんのことは家では大切にしてあげようと思います。なるべく。

 

 

みんながホッと安心できる場所
~ひだまりの家サンポミチ~

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熊本県宇土市にある、ひだまりの家サンポミチ。

ここは、日本Share&Careの認定カウンセラー高瀬多美子さんの、「みんながホッとできる安心安全な場所をつくりたい」という想いで始まった、ひだまりの家です。

 

さんぽみちの途中に、ちょっと自分を見つめなおすための場所として…

子育て中のお母さんが、ホッと安心できる居場所として…

あらゆる世代、立場、経験をもつ人たちとの対話が生まれる場所として…

 

さんぽの途中にちょっと寄って遊んでいこうと思える

そんなあたたかな場所をみなさんと作っていきたいと思っています。

ぜひ遊びに来てくださいね。

 

ひだまりの家サンポミチHP

hidamarinoiesanpomichi.jimdofree.com

 

まわりの人の息子への厚意が、自分の価値観と合わない行為なとき、めちゃくちゃ悩む

息子が生まれるまで、"価値観の違い"というものに真剣に悩まされたことはそれほどなかった。

だけど、息子が生まれてから、たくさんの人と接する機会が増えて、“価値観の違い”を目の当たりにすることがどんどん増えた。

これは、わたしの神経質さと心の狭さを露呈することになる話でもあるけど、すごく悩んだので書きたいと思う。

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親切なお爺さんが息子してくれたことに大パニックしたワケ

ある日、スーパーで息子(1歳7ヶ月)と一緒に買い物をしていたときのこと。

パンの売り場を通りがかると、そこで某大手メーカーの菓子パンの試食が行われていた。

なにげなく歩みを遅くして、試食を見ていたわたし。

すると、近くにいたお爺さんが、爪楊枝が刺さったそのパンの試食のひとかけらを取って、息子に「はい、どうぞ」と言って手渡してきた。

親切なお爺さんが、息子にしてくれた心温まる行為。

しかしその瞬間、わたしの頭の中で大パニックが起こった。

お爺さんの行為はとても親切な行為なのに、わたしが大パニックを起こしたワケ。

それは、その菓子パンがわたしの大嫌いな食品添加物モリモリのパンだったから。

「そんな食品添加物モリモリのパン、息子に食べさせられない!!」

わたしは慌てて息子からそのパンを取り上げようとしたけど、息子を見ているお爺さんを見て、ハタと動けなくなる。

お爺さんの厚意を無下にしたくない。

息子にも、お爺さんの厚意を受けとらせてあげたい。

コンマ数秒の間で、「食べさせちゃダメ」という気持ちと、「お爺さんの厚意を大事にしたい」という気持ちが100往復したわたしは、「ダメ」とも「ありがとうございます」ともどちらにもふれることができず、フリーズして動けない。

息子がそのパンをうけとり、しげしげと眺め、もふっとパンにかぶりついたところで、「あ゛~」と声にならない声を出しながらパンを取って終わった。

お爺さんに感謝を言えたわけでもなく、息子がパンを食べるのを阻止したわけでもなく、なんとも中途半端な感じになって終わってしまったわたしは、その後かなりげんなりした。

お爺さんの厚意を素直に受けとめられなくて、ばつが悪い気持ちと。

健康に悪いとわかっている添加物モリモリのパンを、はじめて息子に食べさせてしまったことへのショックと(たったの一口だが、これまでの苦悩と苦労が一瞬でぶち壊された気がしたのだ!)。

こんなとき、わたしはどういう対応をしていたら、こんな気持ちにならずに済んだのだろうか?

息子を通じて“価値観の違い”をたくさん経験するようになった

息子が生まれて、息子を通じてたくさんの人たちと接するようになった。

これまであまり話したことがなかったような人たちと、接する機会が増えた。

その中で、『自分と価値観がちがう人がいるんだ』という、当たり前のことを体験するようになった。

“価値観”というと少し大げさな気もするので、選択の基準と言った方がいいかもしれない。

食べ物に関することだけではなく、ほかにもいろいろある。

たとえば、子どもの病気についてだ。

わたしは、あまり薬には頼りたくなく、できるかぎり体の免疫機能を補う方法や、自然療法を選びたいと考える(もちろん症状をみて慎重に判断するけど、ふつうの風邪では薬を飲まないでも自宅療養で治ることがある)。

医師から処方される薬ならまだしも、市販の薬は怖くてとても飲めないし、子どもにも飲ませようと思えない。

だけど、人によっては(育った環境によっては)市販の薬をふつうに飲む人もいる。

息子が熱がでたときに、人から市販の薬を勧められてビビったことがあった。

そのときも「いや、いいです」とは言いにくい状況だったので、開いている病院を調べて「開いている病院があるのでそこ行きます!」と言って、なんとか飲まないようにした。

ほかにも、基準の違いにショックを受けた、たとえ話がある。

息子が使う食器についてだ。

実践している方もいると思うけど、わがやではごはん中に、親の使う食器と、息子の使う食器は徹底して分けている。

それは、親の口の中にある虫歯菌とかを息子にうつさないためだ。

わたし自身も、3歳ごろまで大人の使う食器と共有せずに育てられ、そのおかげかこの年(31歳)まで虫歯ができたことはない。

そのことにすごく感謝しているので、わたしも息子にそうしてあげようと思った。

しかし実際やってみると、食器を分けるのはメチャクチャめんどくさい!!

本当にめんどくさい!!

マジでめんどくさい!!

でも、息子のためにとがんばってやってきた。

な・の・に

ある日、職場のパートさんたちと子連れでごはんを食べに行ったときに、それは起こってしまった。

1人のパートさん(わりとお節介が過ぎるおばさん)が、ガンガン自分の箸を使って、息子の世話をしてきたのだ!!

わたしはさりげなく、「いや、だいじょうぶです」と言いながら息子用のフォークで必死に応戦したのだけど、隙をついてついにやられてしまった。

これまでの並々ならぬ苦労があった分、そのときの落ち込みは相当だった(泣いた)。

息子を連れて人と会うことにストレスを感じるようになってしまった

わたしが落ち込んだりショック受けたりするのは、きちんと自分の意向を伝えれてないからしょうがない。

わたしは、自分の意向を上手く伝えられない。

わたしは、いわゆるTHE・空気を読む人間で、 THE・気をつかう人間で、 THE・コミュ障人間だ。

その人の厚意だとわかっていて、「いや、いいです。わたしはこういうふうにしたいので」と言えるほど面の皮は厚くない。

かと言って、相手の気分を害しないように厚意だけ受けとるというような、卓越したトークスキルも持ち合わせていない。

こういうとき、わたしはいつも「相手がイヤな気持ちにならないように」「まわりの空気を壊さないように」と気をつかってしまって、自分の意向を伝えられないことが多い(相手を思いやってそうするのではなく、自分を守るための悪いクセだ)。

そして、自分のしてきたことと真反対のことを受け入れきれなくて、後から落ち込んだり泣いたり怒り狂ったりするのである。

いろんな人と接するほどそういう出来事が増えてきて、しまいには息子を連れて人と会うことにストレスを感じるようになってしまった。

自分と似た価値観の人たちだけと交流できたら、どれだけ安心だろうか。

でも、そういうわけにもいかないし、子育てをしていれば遅かれ早かれぶつかる問題である。

こういう場面は、これからもたくさん起きるだろう。

そんなとき、どう対応していけばいいのだろうか?

わたしなりに考えたことー白か黒か、ではなくグレー

息子が生まれる前まで、"価値観の違い"でこんなに悩んだことはなかった。

大体自分と似た価値観の人たちばかりとつきあってきたし、食べるものについても自分で自由に選べたし、自分で取捨選択できたからだ。

でも、息子が生まれてから、"価値観の違い"にものすごく悩まされるようになった。

それは、と、病気に関することがほとんどだった。

わたしが、息子の体のためにいいと思ってやっていることと、相手が同じように思ってやっていることが、ちがう。

食べ物について、わたしが"アタリマエ"にコレは危険だと思っていることが、人によっては" アタリマエ "じゃない。

そんなことに直面するたび、わたしはショックを受け、ときにはしどろもどろになりながら自分の意向を通したり、ときには空気を読んで挫折した。

挫折はしても、受け入れられたわけではないので、メチャクチャ泣いたり、怒ったりした。

なぜなら、息子の体にとってそれはよくないことだと自分は思っているから。

わたしは、落ち込むたびに自分なりに対応方法をいろいろ考えたが、ケースバイケースなのでなんともいえず、いい方法は思いつかなかった。

自分の性格もあり、うまく対応できなかったわたしは、心のもっていき方を少しずつ思い直していった。

でもそうやって挫折を繰り返していくうち、カチコチだった頭がすこしずつ和らいできて、「まぁいいか、いいさ」と思えるようになってきた。

これまでの子育て全般の経験を振り返ってみて、つくづく感じていることがある。

子育ては、白か黒かの二者択一ではなく、グレーな選択が必要だということだ。

息子が生まれてから、わたしは子育てに完ぺきを求めてしまい、頭の中にたくさんの「ねばならない」ができてしまった。

野菜をたくさん食べさせなければならない、夜9時までに寝させなければならない、etc.

そしてそれが全然できなくて、ストレスを感じたり子育てに自信がもてなくなったりしてしまった。

でも、「たったひとつできただけでもマルだよ」という考え方を大切な人から教えてもらったときに、白か黒かゼロか百かでしか見れていなかった自分に、ハッと気づけたことがあった。

子育ては、完ぺきにいかないことだらけである。

自分の思い通りにいかないことだらけだし、たくさんの人と接するようになると、それはもっと増える。

だから、完ぺきじゃなくていいし、完ぺきにしなくていい、と少しずつ思えるようになった。

白か黒かではなく、グレーでいいと思う。

そう思える境地に達せたのは、 年輪を重ねてきたからかなとも感じるけど(20代のわたしだったら受け入れられなかった気がする)。

「まぁいいか、いいさ」という感覚は、子育てのストレスを減らすためにすごく大事な感覚だと思った。

これまでわたしが無意識に行ってきた食や病気に関する選択の基準は、自分ひとりについてはそれでもよかった。

でも、息子についてはそうはいかない。

忘れてはならない大切なことは、息子にとっての最善はなにか?ということを柔軟に考えることだ。

息子とわたしは違う人間なのだから、そこは尊重しなければならない。

まわりの人から息子に差し伸べられる優しさの形は、実にさまざまだ。

それを、わたしのものさしで白だ黒だと決めつけてはいけない。

そうは思いつつも、すべてをすんなり受け入れることはわたしにとってはむずかしいし、息子の体を思えばなおのことだ。

とくに病気に関してはデリケートな問題なので、自分の意向を決めて責任をもってつらぬいた方が良いと感じている部分もある(このあたり、本当にいろいろと考えることがあるのでまた別の記事で書きたいと思うが)。

体に悪い食べ物については、いずれは避けて通れないだろうからせめて3歳まではと思っていたけど、たった3年ですら完ぺきには避けることはむずかしかった。

意固地になって苦しむより、「完ぺきに避けなくても大丈夫」、と少しずつ割り切った方が、わたしの心も楽になった。

そのときそのときで、息子にとっての最善を柔軟に考えていけたらと思う。

冒頭の試食パンのお爺さんとの出来事に関して言えば、パンを取り上げるのではなく、お爺さんの厚意をありがたく受けとりたかったなと思った。

あのパートのおばさんの直箸の件に関しては、将来息子が虫歯になったら恨んでやるけどな!←最後に心の醜さが露呈した人

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