息子が生まれるまで、"価値観の違い"というものに真剣に悩まされたことはそれほどなかった。
だけど、息子が生まれてから、たくさんの人と接する機会が増えて、“価値観の違い”を目の当たりにすることがどんどん増えた。
これは、わたしの神経質さと心の狭さを露呈することになる話でもあるけど、すごく悩んだので書きたいと思う。
- 親切なお爺さんが息子してくれたことに大パニックしたワケ
- 息子を通じて“価値観の違い”をたくさん経験するようになった
- 息子を連れて人と会うことにストレスを感じるようになってしまった
- わたしなりに考えたことー白か黒か、ではなくグレー
親切なお爺さんが息子してくれたことに大パニックしたワケ
ある日、スーパーで息子(1歳7ヶ月)と一緒に買い物をしていたときのこと。
パンの売り場を通りがかると、そこで某大手メーカーの菓子パンの試食が行われていた。
なにげなく歩みを遅くして、試食を見ていたわたし。
すると、近くにいたお爺さんが、爪楊枝が刺さったそのパンの試食のひとかけらを取って、息子に「はい、どうぞ」と言って手渡してきた。
親切なお爺さんが、息子にしてくれた心温まる行為。
しかしその瞬間、わたしの頭の中で大パニックが起こった。
お爺さんの行為はとても親切な行為なのに、わたしが大パニックを起こしたワケ。
それは、その菓子パンがわたしの大嫌いな食品添加物モリモリのパンだったから。
「そんな食品添加物モリモリのパン、息子に食べさせられない!!」
わたしは慌てて息子からそのパンを取り上げようとしたけど、息子を見ているお爺さんを見て、ハタと動けなくなる。
お爺さんの厚意を無下にしたくない。
息子にも、お爺さんの厚意を受けとらせてあげたい。
コンマ数秒の間で、「食べさせちゃダメ」という気持ちと、「お爺さんの厚意を大事にしたい」という気持ちが100往復したわたしは、「ダメ」とも「ありがとうございます」ともどちらにもふれることができず、フリーズして動けない。
息子がそのパンをうけとり、しげしげと眺め、もふっとパンにかぶりついたところで、「あ゛~」と声にならない声を出しながらパンを取って終わった。
お爺さんに感謝を言えたわけでもなく、息子がパンを食べるのを阻止したわけでもなく、なんとも中途半端な感じになって終わってしまったわたしは、その後かなりげんなりした。
お爺さんの厚意を素直に受けとめられなくて、ばつが悪い気持ちと。
健康に悪いとわかっている添加物モリモリのパンを、はじめて息子に食べさせてしまったことへのショックと(たったの一口だが、これまでの苦悩と苦労が一瞬でぶち壊された気がしたのだ!)。
こんなとき、わたしはどういう対応をしていたら、こんな気持ちにならずに済んだのだろうか?
息子を通じて“価値観の違い”をたくさん経験するようになった
息子が生まれて、息子を通じてたくさんの人たちと接するようになった。
これまであまり話したことがなかったような人たちと、接する機会が増えた。
その中で、『自分と価値観がちがう人がいるんだ』という、当たり前のことを体験するようになった。
“価値観”というと少し大げさな気もするので、選択の基準と言った方がいいかもしれない。
食べ物に関することだけではなく、ほかにもいろいろある。
たとえば、子どもの病気についてだ。
わたしは、あまり薬には頼りたくなく、できるかぎり体の免疫機能を補う方法や、自然療法を選びたいと考える(もちろん症状をみて慎重に判断するけど、ふつうの風邪では薬を飲まないでも自宅療養で治ることがある)。
医師から処方される薬ならまだしも、市販の薬は怖くてとても飲めないし、子どもにも飲ませようと思えない。
だけど、人によっては(育った環境によっては)市販の薬をふつうに飲む人もいる。
息子が熱がでたときに、人から市販の薬を勧められてビビったことがあった。
そのときも「いや、いいです」とは言いにくい状況だったので、開いている病院を調べて「開いている病院があるのでそこ行きます!」と言って、なんとか飲まないようにした。
ほかにも、基準の違いにショックを受けた、たとえ話がある。
息子が使う食器についてだ。
実践している方もいると思うけど、わがやではごはん中に、親の使う食器と、息子の使う食器は徹底して分けている。
それは、親の口の中にある虫歯菌とかを息子にうつさないためだ。
わたし自身も、3歳ごろまで大人の使う食器と共有せずに育てられ、そのおかげかこの年(31歳)まで虫歯ができたことはない。
そのことにすごく感謝しているので、わたしも息子にそうしてあげようと思った。
しかし実際やってみると、食器を分けるのはメチャクチャめんどくさい!!
本当にめんどくさい!!
マジでめんどくさい!!
でも、息子のためにとがんばってやってきた。
な・の・に
ある日、職場のパートさんたちと子連れでごはんを食べに行ったときに、それは起こってしまった。
1人のパートさん(わりとお節介が過ぎるおばさん)が、ガンガン自分の箸を使って、息子の世話をしてきたのだ!!
わたしはさりげなく、「いや、だいじょうぶです」と言いながら息子用のフォークで必死に応戦したのだけど、隙をついてついにやられてしまった。
これまでの並々ならぬ苦労があった分、そのときの落ち込みは相当だった(泣いた)。
息子を連れて人と会うことにストレスを感じるようになってしまった
わたしが落ち込んだりショック受けたりするのは、きちんと自分の意向を伝えれてないからしょうがない。
わたしは、自分の意向を上手く伝えられない。
わたしは、いわゆるTHE・空気を読む人間で、 THE・気をつかう人間で、 THE・コミュ障人間だ。
その人の厚意だとわかっていて、「いや、いいです。わたしはこういうふうにしたいので」と言えるほど面の皮は厚くない。
かと言って、相手の気分を害しないように厚意だけ受けとるというような、卓越したトークスキルも持ち合わせていない。
こういうとき、わたしはいつも「相手がイヤな気持ちにならないように」「まわりの空気を壊さないように」と気をつかってしまって、自分の意向を伝えられないことが多い(相手を思いやってそうするのではなく、自分を守るための悪いクセだ)。
そして、自分のしてきたことと真反対のことを受け入れきれなくて、後から落ち込んだり泣いたり怒り狂ったりするのである。
いろんな人と接するほどそういう出来事が増えてきて、しまいには息子を連れて人と会うことにストレスを感じるようになってしまった。
自分と似た価値観の人たちだけと交流できたら、どれだけ安心だろうか。
でも、そういうわけにもいかないし、子育てをしていれば遅かれ早かれぶつかる問題である。
こういう場面は、これからもたくさん起きるだろう。
そんなとき、どう対応していけばいいのだろうか?
わたしなりに考えたことー白か黒か、ではなくグレー
息子が生まれる前まで、"価値観の違い"でこんなに悩んだことはなかった。
大体自分と似た価値観の人たちばかりとつきあってきたし、食べるものについても自分で自由に選べたし、自分で取捨選択できたからだ。
でも、息子が生まれてから、"価値観の違い"にものすごく悩まされるようになった。
それは、食と、病気に関することがほとんどだった。
わたしが、息子の体のためにいいと思ってやっていることと、相手が同じように思ってやっていることが、ちがう。
食べ物について、わたしが"アタリマエ"にコレは危険だと思っていることが、人によっては" アタリマエ "じゃない。
そんなことに直面するたび、わたしはショックを受け、ときにはしどろもどろになりながら自分の意向を通したり、ときには空気を読んで挫折した。
挫折はしても、受け入れられたわけではないので、メチャクチャ泣いたり、怒ったりした。
なぜなら、息子の体にとってそれはよくないことだと自分は思っているから。
わたしは、落ち込むたびに自分なりに対応方法をいろいろ考えたが、ケースバイケースなのでなんともいえず、いい方法は思いつかなかった。
自分の性格もあり、うまく対応できなかったわたしは、心のもっていき方を少しずつ思い直していった。
でもそうやって挫折を繰り返していくうち、カチコチだった頭がすこしずつ和らいできて、「まぁいいか、いいさ」と思えるようになってきた。
これまでの子育て全般の経験を振り返ってみて、つくづく感じていることがある。
子育ては、白か黒かの二者択一ではなく、グレーな選択が必要だということだ。
息子が生まれてから、わたしは子育てに完ぺきを求めてしまい、頭の中にたくさんの「ねばならない」ができてしまった。
野菜をたくさん食べさせなければならない、夜9時までに寝させなければならない、etc.
そしてそれが全然できなくて、ストレスを感じたり子育てに自信がもてなくなったりしてしまった。
でも、「たったひとつできただけでもマルだよ」という考え方を大切な人から教えてもらったときに、白か黒かゼロか百かでしか見れていなかった自分に、ハッと気づけたことがあった。
子育ては、完ぺきにいかないことだらけである。
自分の思い通りにいかないことだらけだし、たくさんの人と接するようになると、それはもっと増える。
だから、完ぺきじゃなくていいし、完ぺきにしなくていい、と少しずつ思えるようになった。
白か黒かではなく、グレーでいいと思う。
そう思える境地に達せたのは、 年輪を重ねてきたからかなとも感じるけど(20代のわたしだったら受け入れられなかった気がする)。
「まぁいいか、いいさ」という感覚は、子育てのストレスを減らすためにすごく大事な感覚だと思った。
これまでわたしが無意識に行ってきた食や病気に関する選択の基準は、自分ひとりについてはそれでもよかった。
でも、息子についてはそうはいかない。
忘れてはならない大切なことは、息子にとっての最善はなにか?ということを柔軟に考えることだ。
息子とわたしは違う人間なのだから、そこは尊重しなければならない。
まわりの人から息子に差し伸べられる優しさの形は、実にさまざまだ。
それを、わたしのものさしで白だ黒だと決めつけてはいけない。
そうは思いつつも、すべてをすんなり受け入れることはわたしにとってはむずかしいし、息子の体を思えばなおのことだ。
とくに病気に関してはデリケートな問題なので、自分の意向を決めて責任をもってつらぬいた方が良いと感じている部分もある(このあたり、本当にいろいろと考えることがあるのでまた別の記事で書きたいと思うが)。
体に悪い食べ物については、いずれは避けて通れないだろうからせめて3歳まではと思っていたけど、たった3年ですら完ぺきには避けることはむずかしかった。
意固地になって苦しむより、「完ぺきに避けなくても大丈夫」、と少しずつ割り切った方が、わたしの心も楽になった。
そのときそのときで、息子にとっての最善を柔軟に考えていけたらと思う。
冒頭の試食パンのお爺さんとの出来事に関して言えば、パンを取り上げるのではなく、お爺さんの厚意をありがたく受けとりたかったなと思った。
あのパートのおばさんの直箸の件に関しては、将来息子が虫歯になったら恨んでやるけどな!←最後に心の醜さが露呈した人